第1章:暗号学の基礎知識

Foundations of Cryptography

暗号の歴史から現代の応用まで、暗号学の基本概念を体系的に学習します。

この章で学ぶこと

暗号学は情報セキュリティの根幹をなす学問分野であり、現代のデジタル社会を支える重要な技術です。 この第1章では、暗号の歴史的発展を通じて暗号学の基本概念を理解し、 現代社会における暗号技術の重要性と応用について学習します。

暗号の歴史

暗号は人類が文字を使い始めた頃から存在していました。機密情報を敵に知られることなく伝達したいという願いは、 古代から現代まで変わらない人間の基本的なニーズです。歴史を振り返ると、暗号技術は常に時代の技術的制約の中で 最大限の安全性を追求してきたことがわかります。

古代の暗号は物理的な仕組みに依存していました。文字の順序を入れ替える転置式暗号や、 文字を別の文字に置き換える換字式暗号が主流でした。これらの暗号は人間が手作業で処理できる範囲内で 設計されており、現代の基準では脆弱ですが、当時の技術レベルでは十分な安全性を提供していました。

20世紀に入ると機械式暗号機が登場し、より複雑で高速な暗号化が可能になりました。 第二次世界大戦期のエニグマ暗号機は、その代表例です。しかし、アラン・チューリングらによる解読により、 機械式暗号の限界も明らかになりました。この経験が、現代の暗号学の基礎となる理論的研究の出発点となっています。

スキュタレー暗号

転置式暗号

紀元前6世紀古代スパルタ

木の棒に革紐を巻きつけて文字を書く、世界最古の軍事暗号の一つ。

例: 適当な太さの棒(共通鍵)に巻きつけて文字を読み取る

シーザー暗号

換字式暗号

紀元前1世紀古代ローマ

ユリウス・カエサルが使用したとされる、文字を一定数ずらす暗号。

例: HELLO → KHOOR(3文字シフト)

ヴィジュネル暗号

多表換字暗号

16世紀ルネサンス期ヨーロッパ

キーワードを使った多表換字暗号。長い間「解読不可能」とされていた。

例: キー「KEY」で HELLO → RIJVS

エニグマ暗号機

機械式換字暗号

20世紀ナチスドイツ

機械式の回転子暗号機。第二次世界大戦で使用され、アラン・チューリングらによって解読された。

例: 毎日設定が変更される複雑な換字表

暗号を体験してみよう

実際にシーザー暗号を使って、暗号化と復号化を体験してみましょう。シーザー暗号は換字式暗号の最も基本的な形で、各文字を一定の文字数だけアルファベット順にずらして暗号化します。 文字を一定数ずらすだけのシンプルな暗号ですが、暗号の基本概念を理解するのに最適です。

シーザー暗号の名前は、古代ローマの将軍ユリウス・カエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル)に由来します。 彼は軍事通信において、各文字を3文字分後ろにずらす方法を使用していたとされています。 例えば、「A」は「D」に、「B」は「E」に変換されます。このような単純な置換でも、 当時の識字率を考えると十分な秘匿性を持っていました。

現代ではシーザー暗号は容易に解読できる弱い暗号ですが、暗号学の基本的な考え方である 「置換」「鍵」「アルゴリズム」の概念を理解するのに最適な教材です。 下のツールを使って、実際に暗号化の仕組みを体験してみてください。

シーザー暗号体験

シーザー暗号は換字式暗号の最も基本的な形で、各文字を一定の文字数だけアルファベット順にずらして暗号化します。 例えば、3文字ずらす場合、Aは3つ後のDになり、Bは4つ後のEになります。この仕組みにより、 平文「HELLO」は暗号文「KHOOR」に変換されます。復号時は逆方向に同じ文字数だけずらすことで元の文字を復元できます。

平文

HELLO

暗号文

KHOOR

各文字を3文字後ろにずらしています。A→D, B→Eのように変換されます。シーザー暗号は全部で25通りの鍵しか存在しないため、現代では数秒で解読できる弱い暗号ですが、 暗号の基本概念を理解するには最適な例です。

身の回りの暗号技術

現代社会では、私たちが意識していないところで様々な暗号技術が活用されています。 インターネット、スマートフォン、電子決済など、デジタル社会の基盤を支えているのです。 これらの技術なしには、現代の便利で安全なデジタルライフは成り立ちません。

特に重要なのは、暗号技術が「透明性」を持って実装されていることです。 ユーザーは暗号化や復号化の複雑な処理を意識することなく、 安全に情報のやり取りができます。この透明性こそが、暗号技術が広く普及した理由の一つです。

以下では、私たちの日常生活で実際に使われている暗号技術の具体例を紹介します。 これらの技術がどのように私たちのプライバシーと安全を守っているかを理解することで、 暗号学の実用的価値を実感できるでしょう。

HTTPS通信

Webサイトとブラウザ間の通信を暗号化。SSL/TLSプロトコルにより、ユーザーの個人情報やログイン情報が第三者に傍受されることを防ぐ。現代のWebセキュリティの基盤となっている技術で、ECサイトでの買い物やオンラインバンキングなど、機密性の高い通信には必須の技術です。

TLS/SSL プロトコル
クレジットカード決済

オンライン決済時の個人情報保護。クレジットカード情報や個人情報をAES暗号化により保護し、決済処理中に情報が漏洩することを防ぐ。PCI DSS(Payment Card Industry Data Security Standard)という国際的なセキュリティ基準に準拠した暗号化が義務付けられています。

AES暗号化
メッセージアプリ

LINEやWhatsAppでのメッセージ暗号化。エンドツーエンド暗号化により、送信者と受信者以外は誰もメッセージ内容を読むことができない。サービス提供者でさえメッセージの内容にアクセスできない仕組みとなっており、プライバシー保護の観点で重要な技術です。

エンドツーエンド暗号化
銀行取引

ATMやネットバンキングでの取引保護。複数の暗号化層により、口座情報や取引データを多重に保護。HSM(Hardware Security Module)という専用の暗号化装置を使用し、極めて高いセキュリティレベルを実現している。金融業界では最も厳格なセキュリティ基準が適用されています。

多層暗号化システム
パスワード保存

Webサービスでのパスワード安全保存。ハッシュ関数とソルトを組み合わせることで、パスワードの平文を保存せずに認証を行う。bcryptやArgon2などの強力なハッシュ関数を使用し、レインボーテーブル攻撃などの脅威からユーザーのパスワードを保護しています。

ハッシュ関数 + ソルト
データベース暗号化

企業の機密データの保護。透過的データ暗号化(TDE)により、データベースファイル自体を暗号化し、物理的なアクセスからもデータを保護。アプリケーションレベルでは平文として扱えるため、パフォーマンスへの影響を最小限に抑えながらセキュリティを確保できます。

透過的データ暗号化

暗号強度とは

すべての暗号が同じように安全ではありません。暗号の強さは主に「鍵空間の大きさ」と 「解読に必要な計算量」によって決まります。鍵空間とは、その暗号で使用可能な鍵の総数のことで、 一般的に鍵空間が大きいほど安全性が高いとされています。

計算量理論の観点から見ると、暗号の安全性は「計算量的安全性」という概念で評価されます。 これは、現実的な時間と資源の制約の下で解読が困難であることを意味します。 例えば、理論的には解読可能でも、解読に1000年かかるような暗号は実用的に安全と考えられます。

現代の暗号学では、米国国立標準技術研究所(NIST)の指針に基づいて安全性が評価されています。 現在のNIST指針では、2030年まで利用する暗号には少なくとも112ビット(2^112程度、約10^34)の計算量が必要とされ、 2030年以降も長期間利用する重要な用途では128ビット(2^128、約10^38)以上の計算量を要求します。 最も強力な暗号では256ビット(2^256、約10^77)という天文学的な計算量が必要で、 これは現在の技術では宇宙の年齢を超える時間をかけても解読できないほど強力です。

ただし、暗号の強度は技術の進歩とともに相対的に変化することも重要な点です。過去に安全とされていた暗号が、新しい解読技術や計算能力の向上により脆弱になる場合もあります。 そのため、暗号技術は常に最新の脅威に対応できるよう進化し続ける必要があります。

まとめ

この第1章では、暗号学の基礎的な概念と歴史的発展について学習しました。 古代の物理的な暗号から現代のデジタル暗号まで、人類は常により安全で効率的な秘密通信の方法を追求してきました。 そして現在、暗号技術は私たちの日常生活に深く浸透し、デジタル社会の基盤を支えています。

暗号学は単なる秘密通信の技術にとどまらず、プライバシー保護、データ完全性、認証など、 情報セキュリティの様々な側面をカバーする総合的な学問分野です。 今後の章では、これらの概念をより深く掘り下げ、具体的な暗号アルゴリズムの仕組みや実装について学習していきます。

この章で学んだ重要なポイント

  • 歴史的発展暗号は古代から存在し、技術の進歩とともに複雑化・高度化してきました。各時代の暗号は当時の技術的制約の中で最大限の安全性を追求していました。
  • 現代の応用現代社会では見えないところで様々な暗号技術が活用されており、インターネット通信から電子決済まで、私たちの生活を支えています。
  • 安全性の評価暗号の強さは鍵空間の大きさと計算量によって決まり、現代の強い暗号は事実上解読不可能なレベルの安全性を持ちます。
  • 継続的発展暗号技術は技術の進歩に応じて常に進化し続けており、新しい脅威に対応するための研究が継続的に行われています。
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